科学教育,2つの誤解
選挙の行方は心配した通りになりました.マスコミの誘導にやすやすと乗ってしまう人たち.何とわかりやすい国民性.
右翼党の安倍総裁は,さっそく憲法改正への並々ならぬ意欲を見せているそうです.あな恐ろしや.
http://news.livedoor.com/article/detail/7240843/
さて前回の続きです.
テレビ番組では科学的な「証明」よりも,一時しのぎの「説明」が幅をきかせている.その背景には,疑問の提示>回答>次の疑問の提示>・・・という形式へのこだわり,ないし科学番組はかくあるべしという信仰のようなものがあるらしい. で,それと関係するかどうか定かではないけれど,科学教育の常識について少し考えてみたい.ポイントは2つ.
まず,第1のポイント.
「なぜ?」と疑問を持つことが,科学への入門なのだ,と昔から言われている.あまりに一般的なので,これに異を唱えるのは大変かもしれない.しかし私は違和感をぬぐえないので,あえて発言します.
科学研究の具体的な現場を想像してください.たとえば生物の分類学を研究している人は,「なぜ?」という疑問に駆り立てられているだろうか? 答はもちろんNOだ.では分類学者は疑問を全く持たないか?というと,それも違う.「ここにはどんな生物が生息しているのだろう?」「これはどういう種類の生物なのだろう?」etc. etc. というふうに,さまざまな疑問と向かい合っている.いろいろある中で,「なぜ?」は,多くの疑問のごく一部に過ぎない.研究の現場では確かにさまざまな疑問に遭遇する.しかし少なくとも生物学に関しては,疑問のすべてを,「なぜ?」で代表させることには無理がある.
遠い昔にはニュートン力学が「科学」のモデルだった.そういう世界では,「なぜ?」という疑問を持つことが極めて大切だったのかもしれない(本当はどうか知りません).生物学は科学として遅れた分野であり,まだ科学の域に達してないのだ,と強弁することもできたかもしれない.しかし,それは昔の話だ.現代の生物学(分類学も含め)を「科学ではない」と言うのは無理である.科学が扱う分野が広がり,研究方法も多様になった.現代科学のスタイルは20世紀初頭までとはずいぶん違ったものになっている.
科学研究のさまざまな局面において,なすべきさまざまな作業がある.それらの作業リストの中で「なぜ?」が占める領域は少ない.「なぜ?」だけを科学の原動力というふうに捉えたら,科学の研究は,やせ細ったものになってしまうだろう.研究活動の原動力は,そのように定式化された「疑問」ではなく,疑問も含め研究対象への尽きることのない興味である,と私は思います.
次に,第2のポイント.
「なぜ?」という疑問を持ちなさい,というアドバイスとともに,広く流布している思想は,科学の方法とは「仮説の検証」だという説である.なるほど,実験による仮説の検証は,研究活動の中で重要なステップには違いない.しかし,「それが科学だ」と言い切ってしまうのは,これも無理がある.仮説に至る前に,さまざまな情報獲得の積み重ねがなければならない.この段階では「実験」による検証よりも,しっかり現象を「観察」することのほうが重要になる.観察によって新しい事実が判明したら,それを「科学の進歩」と呼ぶことに私は何のためらいもない.仮説の検証だけが科学ではありません.
また,仮説の検証といっても,何か特別な思考をするわけではない.普通に論理的に考えるだけだ.むしろ仮説を検証するというスタイルにこだわり過ぎるのはマイナスです.ニュートンは「私は仮説を作らない」と言いました.スタイルへのこだわりは自由な思考の妨げになる.だいいち,あまり堅苦しいのは面白くない.楽しくない.
安易に仮説を作らないほうが良い場合もある.何でもすぐ「説明」を求めたがる頭デッカチ人間になってはいけない.むしろ,わからないことはカッコにくるんでおいて,とにかく情報収集に徹するという手法のほうが,より現実的ではないだろうか.そのほうがゼッタイ面白い.新しい情報がどんどん入って来るという楽しみもある.そういう楽しさをこそ,子供たちには体験させてあげたいと思う.
まとまりのない議論になってしまったので,「要約」を書いておきます.
1.「知りたい」という欲求は,子供を科学に向かわせる1つの動機ではあるが,それが全てではない.また「『知りたい』という欲求」を「『なぜ?』と疑問をもつこと」と言い換えたら,入門への間口を狭めてしまうことになる.
2.実験による「仮説の検証」は,たぶん自然科学に特有の方法である.しかし,それは自然科学の多様な側面の1つに過ぎない.
3.勉強とは楽しいものである.特に自然科学は,人を夢中にさせる多くの要素をもっている.その楽しさに気付かせることが,科学入門への扉として重視されねばならない.
右翼党の安倍総裁は,さっそく憲法改正への並々ならぬ意欲を見せているそうです.あな恐ろしや.
http://news.livedoor.com/article/detail/7240843/
さて前回の続きです.
テレビ番組では科学的な「証明」よりも,一時しのぎの「説明」が幅をきかせている.その背景には,疑問の提示>回答>次の疑問の提示>・・・という形式へのこだわり,ないし科学番組はかくあるべしという信仰のようなものがあるらしい. で,それと関係するかどうか定かではないけれど,科学教育の常識について少し考えてみたい.ポイントは2つ.
まず,第1のポイント.
「なぜ?」と疑問を持つことが,科学への入門なのだ,と昔から言われている.あまりに一般的なので,これに異を唱えるのは大変かもしれない.しかし私は違和感をぬぐえないので,あえて発言します.
科学研究の具体的な現場を想像してください.たとえば生物の分類学を研究している人は,「なぜ?」という疑問に駆り立てられているだろうか? 答はもちろんNOだ.では分類学者は疑問を全く持たないか?というと,それも違う.「ここにはどんな生物が生息しているのだろう?」「これはどういう種類の生物なのだろう?」etc. etc. というふうに,さまざまな疑問と向かい合っている.いろいろある中で,「なぜ?」は,多くの疑問のごく一部に過ぎない.研究の現場では確かにさまざまな疑問に遭遇する.しかし少なくとも生物学に関しては,疑問のすべてを,「なぜ?」で代表させることには無理がある.
遠い昔にはニュートン力学が「科学」のモデルだった.そういう世界では,「なぜ?」という疑問を持つことが極めて大切だったのかもしれない(本当はどうか知りません).生物学は科学として遅れた分野であり,まだ科学の域に達してないのだ,と強弁することもできたかもしれない.しかし,それは昔の話だ.現代の生物学(分類学も含め)を「科学ではない」と言うのは無理である.科学が扱う分野が広がり,研究方法も多様になった.現代科学のスタイルは20世紀初頭までとはずいぶん違ったものになっている.
科学研究のさまざまな局面において,なすべきさまざまな作業がある.それらの作業リストの中で「なぜ?」が占める領域は少ない.「なぜ?」だけを科学の原動力というふうに捉えたら,科学の研究は,やせ細ったものになってしまうだろう.研究活動の原動力は,そのように定式化された「疑問」ではなく,疑問も含め研究対象への尽きることのない興味である,と私は思います.
次に,第2のポイント.
「なぜ?」という疑問を持ちなさい,というアドバイスとともに,広く流布している思想は,科学の方法とは「仮説の検証」だという説である.なるほど,実験による仮説の検証は,研究活動の中で重要なステップには違いない.しかし,「それが科学だ」と言い切ってしまうのは,これも無理がある.仮説に至る前に,さまざまな情報獲得の積み重ねがなければならない.この段階では「実験」による検証よりも,しっかり現象を「観察」することのほうが重要になる.観察によって新しい事実が判明したら,それを「科学の進歩」と呼ぶことに私は何のためらいもない.仮説の検証だけが科学ではありません.
また,仮説の検証といっても,何か特別な思考をするわけではない.普通に論理的に考えるだけだ.むしろ仮説を検証するというスタイルにこだわり過ぎるのはマイナスです.ニュートンは「私は仮説を作らない」と言いました.スタイルへのこだわりは自由な思考の妨げになる.だいいち,あまり堅苦しいのは面白くない.楽しくない.
安易に仮説を作らないほうが良い場合もある.何でもすぐ「説明」を求めたがる頭デッカチ人間になってはいけない.むしろ,わからないことはカッコにくるんでおいて,とにかく情報収集に徹するという手法のほうが,より現実的ではないだろうか.そのほうがゼッタイ面白い.新しい情報がどんどん入って来るという楽しみもある.そういう楽しさをこそ,子供たちには体験させてあげたいと思う.
まとまりのない議論になってしまったので,「要約」を書いておきます.
1.「知りたい」という欲求は,子供を科学に向かわせる1つの動機ではあるが,それが全てではない.また「『知りたい』という欲求」を「『なぜ?』と疑問をもつこと」と言い換えたら,入門への間口を狭めてしまうことになる.
2.実験による「仮説の検証」は,たぶん自然科学に特有の方法である.しかし,それは自然科学の多様な側面の1つに過ぎない.
3.勉強とは楽しいものである.特に自然科学は,人を夢中にさせる多くの要素をもっている.その楽しさに気付かせることが,科学入門への扉として重視されねばならない.
2012-12-19 05:48
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自然科学、というよりその応用でしょうか、そちらとはどうもしっくりいかず、遅まきながら文系に走った私が言うのもなんですが、確かに「なぜ?」よりむしろ「好き」が強力かなという気がします。そのことが無性に好きで、何でもかんでも知りたい・・・となればすごいエネルギーが出そうです。でもただ放っておいて好きになるものでもなく、ある程度の頑張り(入門的な)が必要なことも多いように思います。記事を拝見しながら、先達の役割は、一山越えて「好き」にさせてあげることかなぁなどと考えました。
by mai (2012-12-19 21:31)
shira様,mai様,nice!をありがとうございます.
mai様,コメントありがとうございます.
>先達の役割は、一山越えて「好き」にさせてあげることかなぁなどと考えました
その点がまず重要だと思います.
その「好き」を持続させるための小さなアフターケアも,相手次第では必要かもしれませんね.
by Ladybird (2012-12-20 03:08)
yam様,nice!をありがとうございます.
by Ladybird (2012-12-23 09:50)
bashy0322様,tamara様,nice!をありがとうございます.
by Ladybird (2012-12-26 20:50)
go 様,nice!をありがとうございます.
by Ladybird (2013-01-09 21:35)
SORI様,nice!をありがとうございます.
by Ladybird (2013-04-19 02:41)